日々の気づき

人は、情報に左右されるという話

①この間、たまたま見たテレビ番組の格付けチェック。
②バナナに「りんご」と書かれた値札が貼られている画像。
③昨日、とある投稿で見た、「マウント」についての話。

その辺のことを考えながら、考えたこと。

①目隠しをして、何がどれだかわからない状態で食べれば、高級品でもスーパーの食材でも全く別な食品でも。

分からない時は分からないと思う。

というか、テレビ番組見てて思ったのは、人って何かを決断するとき、意識的にも無意識的にも過去の経験から導き出してるんだということ。

大抵、食べなれてるのって、正解でない可能性が高いけど。いつも食べているものと比較して、よりまろやかだからこれだ、という話してたりするの。

人は無意識に比較をしているものなんだなと、テレビ見ながら学ぶこと一つ。

②ラベリングって想像以上に大事なんだなと。

知っている人からすれば、バナナはバナナだから、「りんご」の表記があれば「それはおかしい」「貼り間違えたんだな」という笑いになるけれど。

バナナという存在を知らない人からすれば、私たちがバナナだと思っているものはりんごとして認識され、おかしさも間違いもないものとなる。

誰かわからない人が、「これがバナナである」というラベリングをして、私たちはそれを「バナナ」だと認識し。

バナナ以外の名前で呼ぶ人を「おかしいね」と言って笑う。

この一連の思考そのものが、「おかしい」かもしれないのに。

誰かがラベリングしたものをあたかも常識であるかのように認識する、そこに疑問を抱くことこそが、なんか色々な第一歩な気がするようなしないような。

③マウントをとられているというのは、知識があって初めて成り立つ気がする。

実はとある投稿に出てきたモモウメの動画、私も好きでよく見てた。

マウンティングマウンテンのお話も笑いながら見てたんだけど。

「マウント」って、「何を以てしてマウントと定義するのか?」という部分(知識)ができあがっていないと、そもそも「マウントをとる」という状況にすらならない気がする。

私もこの動画見て、その当時一緒に働いていた栄養士さん(仲は良かったです)に、『ねぇちょっとマウントとってくれ』とお願いしたらそんなお願いされたこと一度もないって苦笑いしてましたよ。

私だったら、

私「連休で東京ディズニーランド行くんだ~」

相手「そうなんだ~私もカリフォルニアのに行った~」

私「そうなの!?東京とカリフォルニアのってどう違うの?」

みたいな感じで確実に「マウントとられた」なんて感情にならないよ……むしろカリフォルニアと東京のディズニーの違いについて語ってほしいってお願いするよ……(というかもう、経験者なら語れるだろおいって感じで食いつくかもw)

人生って学びや経験から得られることの方が多いわけで。「嫉妬」とか、ここでは触れなかったけど「優しさ」も学ぶことによって得られるものではなかろうかと思ったり思わなかったり。

性善説とか性悪説とかっていうより、そもそも学んでいかないと理解できないって感じじゃないのかなぁと。

小学生の頃から女社会に揉まれてきた女性が生きにくさ感じたりマウントがとかって言うのは、こういうことを自然と学んでいるからじゃないのかななんて。

珍しく、全く異なる情報から似たような結論が導きだされたのでまとめてアウトプットしてみたけど、若干出てきた結論が違うような気もしてる。

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